エピローグ・レター 本気の手紙

「芸術新潮」2026年5月号掲載の内容を転載

吉田修一 SHUICHI YOSHIDA

長崎県生れ。1997年「最後の息子」で文學界新人賞を受賞しデビュー。山本周五郎賞、芥川賞、柴田錬三郎賞、芸術選奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞など数々の賞を受賞し、2016年より芥川賞選考委員を務める。映像化された作品も多く、2025年公開された『国宝』は興行収入200億円を超える大ヒットを記録した。

吉田修一 SHUICHI YOSHIDA

何気ない日々の思い出には、
ふとした瞬間にみんなを「笑顔」にする
エピソードが詰まっている。
心を込めて綴った言葉は、時を越えてもう一度、
想いを伝えたい人へ、かけがえのない
メッセージとして届けられる。
明治安田の「エピローグ・レター」は、
家族をつなぐ、
「あの人からの大切な最期の贈り物」です。

作家の吉田修一さんに
「エピローグ・レター」をテーマにした掌編小説を書下ろしていただきました。

「あれ、お父さんもう出かけた?」
「え? いない?」
「駅まで車で送ってもらおうと思ってたのに」
「さっきまで、そこでうろちょろしてたよ」
 娘と妻の会話が、書斎にいる誠一にも筒抜けである。もちろん書斎のドアもリビングのドアも閉めている。ちなみに駅から徒歩二十五分かかるこの建売住宅を三十五年ローンで購入した際、ここ書斎は「納戸」と記されていた。
「さっきまでうろちょろしてたって、もしかしてお父さんまだ書けてないの? そのエピローグ・レター」
「もう笑っちゃうよ。さっきなんかそこのテーブルで、『降りてこないんだよなー』なんて頭抱えちゃって。ちょっとした小説家気取りよ」
 誠一は咳払いでもしてやろうかと思ったが、デスクに広げた白紙を前にその咳払いさえため息に変わる。
 面白い生命保険商品があった。保険をかけた人が受取人にメッセージを残せるというものである。死亡保険金が支払われる時、そのエピローグ・レターが受取人に届く。
「お母さんが面白がってハードル上げるから、お父さん書けなくなっちゃうんだよ」
「だって、ただでさえお父さん死んじゃったら悲しいのに、その上、感謝の手紙なんか届いたらお母さんどうすんのよ。だから言ったのよ。『ねえお父さん、悲しくなるのはいらないから、最後くらい笑わせてよ』って」
「いやいや、それプレッシャーだって。エピローグ・レターで笑わせろって。そりゃ書けなくなるよお父さんも。文章で人を笑わせるって大変だよ。お父さんにそのポテンシャルないって」
「そりゃ分かってますよ、お母さんだって」
「だったら『普通のでいいよ』って言ってあげればいいじゃない」
「いや、もちろんそれでいいのよ。でもね、その話で思い出しちゃったんだけど、お母さんさ、昔お父さんに手紙もらったことあんのよ。付き合う前よ。だからラブレター」
「ほう、お父さんも書いたかぁラブレター」
「高校ん時よ、卒業間近」
「おお、いいじゃん」
「呼び出されてさ、どこだっけな音楽室かどっか。で、行ったら、お父さんが立ってるわけよ。『これ、読んでほしい』って」
「おう、青春だねえ」
「そうなのよ。まあ、クラス同じだったしさ、たまに話もしてたし、お互いテストの点数悪くて居残り一緒だったりしてたんだけど、それまでそういう雰囲気なかったからさ、お母さんもちょっと驚いてたんだけど、もらった手紙をね、その場で読んでくれって言うわけ」
「その場で? 珍しいね」
「そうなのよ。でもまあ、じゃ、読みますって封を切ってたら、『詩を書いたんだ』って言うわけ。お父さんが。真顔で」
「え?」
「いや、だから詩」
「ポ、ポエム?」
「アンタもう笑ってんじゃん」
「だって。もうやめてぇ」
「だから読んだのよお母さん、その場で」
「もうやめてって」
「そしたら書いてあるわけ一行目、『春、きみが笑った。』」
 筒抜けである。妻と娘の爆笑が、リビングのドアも書斎のドアも突き抜けてくる。誠一は握りすぎてちょっと熱っぽい万年筆を白紙の上に投げ置いた。
「……さすがに一行目しか覚えてないけど、お母さんもうその一行目でノックアウトじゃない。笑っちゃいけないって思うと、もうさ。女子高生だよ、無理だってその状況」
「もうやめてってお母さん、泣いてるじゃん」
「アンタだって、泣いてるじゃん」
 ……笑え笑え、である。こっちがしおらしく感謝の手紙を書こうとしている横で、心置きなく笑えである。
「お、お父さん、ま、まだ覚えてんのかな、その自分が書いたポエム」
「ま、まさか、お、覚えてるわけないよ」
 笑いすぎて、二人とも噎せているが、……いやいや、それが覚えてるんだな、と書斎の誠一はニヤリである。忘れるわけがない。一度書くと決めたら、俺がどれほど本気になるか、お二人もご存じでしょ。お望みとあらば、笑わせてあげようじゃありませんか、と。
 誠一はおもむろに万年筆を握ると、白紙に向かった。
 春、きみが笑った。
 夏、きみが笑った。
 秋、きみが笑った。
 冬、きみが笑った。
 毎日ずっときみを見ている。笑っているきみを。
 ずっと。
 今もずっと。

《散歩、日傘をさす女》
クロード・モネが一瞬の光と風を捉え、愛を込めて
妻カミーユと息子ジャンを描いた永遠の名作。
《散歩、日傘をさす女》 1875年
油彩、カンヴァス 100×81cm
ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵

明治安田
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