あきらめない姿勢が人の心を動かす 『人生のモットーは、“継続は力なり”』 歌舞伎のおかげでいまの自分がある ~ 歌舞伎俳優 尾上松也さん ~ 取材_岸良ゆか 撮影_赤澤昂宥 ヘアメイク_岡田泰宜 スタイリスト_椎名宣光 制作_マガジンハウス

いま歌舞伎界で最も注目される若手のひとり、尾上松也さん。昨年は正月恒例の『新春浅草歌舞伎』にはじまり、一年のラストを飾る『十二月大歌舞伎』にも出演。歌舞伎俳優として充実する一方、テレビドラマやバラエティ番組、歌番組などでも多彩な才能を発揮しています。そして、今年3月には初主演映画『すくってごらん』が公開。歌舞伎俳優の家に生まれ、エリート街道を歩んできたイメージのある松也さんですが、実際には“エリート”とは無縁。数々の苦難を克服し、自力で道を切り拓いてきた36年間に迫ります。

映画初主演のよろこびと責任

映画『すくってごらん』は、“世界一静かで優雅なスポーツ”とされる金魚すくいをテーマにした成長物語。松也さんは、ドラマ『半沢直樹』で演じたIT社長を彷彿とさせるエリート銀行員役で主演します。

「今回、映画主演のお話をいただいて、撮影が近づくにつれて意識したのは『どんな現場をつくろうか』ということでした。監督やスタッフ、キャストの間に立って現場の空気をつくるのは主演の役割だと認識していますので。わくわくする気持ちが大きかったぶん責任感も大きかったですが、いざ撮影がスタートすると、スタッフもキャストもすばらしい方々ばかりで。みんなで一丸となって、とにかく楽しみながらものづくりができたと思います」

はじめてだとは思えない堂々たる主演ぶりの背景には、松也さんがこれまでの人生で背負ってきたさまざまな“覚悟”がありました。

Profile

尾上松也さん

1985年、東京生まれ。1990年、5歳のとき二代目尾上松也として『伽羅先代萩』の鶴千代役で初舞台。以降、数々の子役を経験する。2009年より歌舞伎自主公演『挑む』を主宰。歌舞伎のほか、ミュージカルや舞台、テレビドラマ、映画と幅広いジャンルで活躍する。

Special Interview MATSUYA ONOE

歌舞伎俳優の息子として生まれて

松也さんが初舞台を踏んだのは5歳のとき。本人はもちろん、ご両親にとっても予期せぬ出来事だったといいます。

「父親が六代目尾上松助を襲名することになり、その襲名披露公演ではじめて舞台に立ったのですが、僕の出演が決まったのは記者会見の前日。当時の松竹の会長さんに『出してしまえば?』と言われ、急に決まったそうです。父も母も当時は僕を歌舞伎俳優にするつもりはなかったようで、お稽古すらしたことがありませんでした。自分では覚えていないのですが、本番では萎縮こそしなかったものの、舞台とはなにかがよくわかっていなかったようで、人が言うせりふを口パクしてしまったり。周りの大人は大変だったみたいですね」

無事に初舞台を終えたあと、子役として定期的に舞台に立つうちに、歌舞伎は尾上松也さんの生活の一部になっていきます。

「公演のお話があるたびに両親は僕の意思を確認してくれて、自分で『出たい』と言っていたそうです。一つひとつの舞台を覚えているわけではありませんが、楽屋で大人の方たちが遊んでくれて、それを楽しみに劇場へ通っていた記憶があります。楽しくて好きなことだからとつづけているうちに、舞台やお稽古は日常の風景になっていました」

歌舞伎から離れ、映画と野球にのめり込んだ中学時代

歌舞伎から離れ、映画と野球にのめり込んだ中学時代

子役も中学生になると、年齢に合う役柄がないのに加え、声変わりするため、役者の多くが一度は歌舞伎から離れるのだそう。松也さんも例にもれず、中学の3年間は舞台と距離を置きます。

「舞台に出なくなると、次第に歌舞伎への興味が薄れていきました。そのころから映画を見るようになったり本格的に野球をはじめて、あたらしい趣味に夢中になりましたね。とくにアメリカの映画にハマり、一時は高校を卒業したら渡米し、現地で役者をめざそうと思っていたくらい。ですが、高校1年生のときに歌舞伎の舞台のお話をいただいて、復帰することにしました。歌舞伎をきらいになったわけではないですし、もし本当にアメリカで役者をめざすなら、歌舞伎という日本が世界に誇る伝統芸能を知っていることが武器になるかもしれない。おこがましい考えですが、それなら高校の3年間はまた歌舞伎を勉強させていただこう、と当時は思っていました(笑)。そのときも両親が『どうする?』と聞いてくれて、自分で決めました」

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父の死。20歳のときに訪れた 人生最大の試練

久しぶりの歌舞伎は、やはり楽しい。歌舞伎の舞台へ戻ると海外へ行きたい思いは薄れ、高校卒業後も日本で歌舞伎をつづけます。ところが、松也さんが20歳のとき、父・松助さんが急逝。その日から、松也さんは20歳にして家族と一門を背負う立場になりました。

「うちは代々歌舞伎俳優を輩出してきたような、いわゆる“良い家柄”ではありません。当時の自分は大きなお役を任せていただける立場ではなかったですし、歌舞伎の世界以外ではほとんど知られていない存在でした。このままでは歌舞伎界で身を立てることすらままならない。そう自覚していたので焦りましたね。とにかく30歳までは全力でがんばろう、それまでに芽が出なかったら、すべて辞めてしまう覚悟でした」

もう辞めてしまおうと何度も思った

松也さんは歌舞伎以外のジャンルでもオーディションを受けまくり、チャンスがあると感じる仕事なら、リスクのほうが大きくても引き受けました。そして、歌舞伎では自主公演『挑む』を開始します。

「自主公演はまさにリスクしかなかったですね。お金がかかる一方で、どれだけのお客さまが来てくださるのかは未知数。お芝居以外の交渉事が不慣れだったのに加え、はじめて知る礼儀もたくさんありました。自主公演をはじめて数年はあらゆる方面で恥をかきましたし叱られもしました。辛い思いしかなかったと言ってもいいかもしれません」

最初はチケットも売れず、赤字続き。「もう辞めてしまおうと何度も思った」という松也さん。それでも毎年つづけられたのはなぜなのでしょうか。

「自分についてきてくれるスタッフと共演者、そしてお客さまがいたからです。あとは意地ですね。そうしてなんとかつづけているうちに、お客さまが少しずつ増え、『来年はどうするの?』なんて声をかけられるように。継続は人を動かす力になるんだと、肌で感じました」

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27歳、自分の殻を打ち破って手応えを感じる

もう一つ、大きな転機になったのは、2012年に上演された蜷川幸雄さん演出の舞台『ボクの四谷怪談』でした。

「僕がいただいたのはお岩さんの役で、脚本を読むと準主役くらいの扱いでした。そのとき27歳。タイムリミットに設定した30歳が迫っていましたので、最後のチャンスのつもりで挑みました。命がけでやろう、くらいの意気込みはあったのですが、稽古では蜷川さんからダメ出しされてばかり。とくに、僕がひとりで歌いながらほかの出演者を舞台に呼び込むラストシーンがうまく演じられず、毎日のように悩んでいました。本番の2日前になってもできなくて、もうなにも考えずにアドレナリンが出るのに任せて夢中で演じたら、覚醒したみたいな感覚になって。蜷川さんにはじめて『いいじゃん』と言っていただけたんです。それで手応えを感じ、公演初日を迎えたところ、僕の演技を見た関係者の方が翌年のオーディションへの参加を打診してくださった。そういったこともこれまでになかったので『これは流れが来たかも』と思いましたね」

36歳、さらに芸の幅を広げ、歌舞伎界に恩返しを

蜷川さんの舞台をきっかけに、歌舞伎以外の仕事にも活躍の場を広げていった松也さん。30歳になったときの自己評価は「ギリギリセーフ」、いまは40歳に向け、役者として歌舞伎俳優として、さらなる進化を遂げるべく奮闘中だといいます。

「いまこうしていろいろなお仕事をさせていただけるのは、歌舞伎で培ったベースがあってのこと。ここから先は、自分がさらに多くの方々に認めていただいて、いろいろな世代に歌舞伎を知っていただくことが歌舞伎界への恩返しになると思っています」

現在、36歳。亡き父・松助さんがはじめて父親になった年齢が近づいていますが、松也さん自身は“家族”や“文化の継承”について、どう考えているのでしょうか。

「うちは代々つづく名家ではありませんので、両親が僕にしてくれたように、もし結婚して子どもができたら、それが男の子であろうが女の子であろうが、子どもには自分が好きなことをしてもらいたいと思っています。まあ、年齢的にはそろそろ結婚してもおかしくないですし、家庭をもちたいという気持ちはありますが、こればかりはタイミングとご縁があってのことなので。僕は早くに父を亡くし、歌舞伎界の先輩方に芸事を教えていただいて育ちました。その経験から、“継承”に血縁関係が必要だというわけではないと思っております。当面は、歌舞伎が好きで、歌舞伎俳優をめざす後輩たちに、自分が先輩方からいただいたものを伝えていきたいですね」

ジャケット66,000円、パンツ36,000円(ともに[Milok]/ GOOD LOSER/ Milok TEL.03-6455-1440)その他スタイリスト私物